【コラム】【K-1と立ち技格闘技の歴史②】第1回K-1GPを成功させた理由――そこには緻密な計算と確信があった(執筆者:松井 孝夫)
旧K-1時代を振り返るこのコラムは、前回、K-1創始者にして正道会館の石井和義館長がプロレスと絡むことで、格闘家たちの知名度を上げていった手法を伝えた。今回はもう少し踏み込んでみたい。
当時、アントニオ猪木のストロングプロレス、異種格闘技戦から派生して、「格闘プロレス」なるジャンルが一大ムーブメントを起こしていた。今でこそ笑い話にもなるが、その時は試合があるたびにプロレスか格闘技か、という議論が真剣に語られていて、とくに格闘技側のプロレスアレルギーはかなりのものがあった。
筆者は「週刊プロレス」から「格闘技通信」という格闘技雑誌に異動してきたばかりだったため、まさにその渦中にいた。
「あの試合は、いわゆるプロレスなの?」という会話は、普通に記者たちの中でかわされていたし、格闘プロレス団体側の「もっとページを多く使って扱ってほしい」という圧力、または格闘技団体側からの「同じ雑誌に載りたくない」という意見の綱引きが頻繁にあったのは事実だ。
そんな中で、石井館長は前田日明のリングスと手を組んだ。リングスはいわゆる格闘プロレス団体で、91年に開局した衛星放送WOWWOWの大人気コンテンツとして存在感を示していた。のちのPRIDEのスター選手となったエメリヤーエンコ・ヒョードル、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラなどを世に送り出したのがリングスだ。
前田と佐竹雅昭が対戦したら、どちらが強いのか?などといったことを話題に、石井館長は正道会館の空手家を次々とリングスへ送り込み、そして異種格闘技戦を実現していった。
石井館長が絶妙だったのは、前田との距離感だ。仲良くはするが、取り込まれることはしない。そして、知名度を上げながら少しずつフェードアウトしていき、K-1開催への足固めをしていった。
93年に開催の第1回K-1グランプリ(のちのWGP)のメンバーは、佐竹雅昭を筆頭に、ピーター・アーツ、アーネスト・ホースト、ブランコ・シカティック、モーリス・スミス、チャンプア・ゲッソンリット、トド・“ハリウッド”・ヘイズ、そしてスタン・ザ・マンの代替え選手として後川俊之の8名がエントリーした。
モーリス・スミスは89年に新生UWFのリングで鈴木みのるを右ストレートでKOしたことで有名になった、全日本キックボクシング連盟の外国人キックボクサーのエース。それまでモーリスは8年間無敗記録を作っていたが、ピーター・アーツに敗北。世代交代の形でアーツが台頭していた時だった。
チャンプア・ゲッソンリットはタイの重量級ファイター(といっても体重75kgくらい)だが、UWFに参加してプロレスラーの安生洋二を左ミドルキックでボコボコにして話題になった。
一般的な知名度では、地上波のバラエティ番組によく出演していた佐竹がダントツで、あとはモーリス、アーツ、チャンプアをプロレス&格闘技ファンが知っているくらいの認識だったように思う。
そんな状態で、よくフジテレビがK-1GPの放映に踏み切ったものだ。そこは、石井館長の営業力の才能と執念としか表現のしようがないが、1万2000人の国立代々木第一体育館が満員になるほどの遠心力と求心力がそこにあったのは間違いない。
チケット販売戦略も見事で、チケット発売と同時に10分で完売というニュースを「格闘技通信」が表紙にうたい、当時の編集長だった谷川貞治氏と石井館長がタッグを組んで熱を生み出し、ブームを作り上げていった。
また、芸能人をリングサイドに招待することで、いかに注目されているイベントなのかを世の中にアピールできたことも、石井館長のPR戦略として見事な成果を発揮した。ネット文化の現在ならば、さらに効果を出していたのは間違いない。
K-1GPは成功するかも?ではなく、間違いなく成功するという計算と確信が石井館長にはあった(以下、続く)。